静坐の友(季刊誌)

第15号 岡田虎二郎と日暮里本行寺静坐会

 先生は、朝起きると、冷水浴を行い本行寺へ向かう。毎朝六時開会。すでに参加者は本堂に二百名ばかり、思い思いに坐っている。それぞれの姿形を正し、短い感想を述べる。三、四十分ののち目を開かせ散会。それから日程に従って東京中の静坐会を歴巡し、帰宅は深夜に及んだ。

 それから日記を書き、冷水浴をして床につく。全国に二万人もの静坐法の弟子がいたが、ずっとこの書生のような生活を改めなかった。

 洋服は夏冬それぞれ一着、食事は飯と香の物ですませた。本行寺の入口に志納箱があり一人五十銭ずつほど集めたともいうが、学生などは入れなくても良かったらしい。

 静坐法を言葉で説明するのはむづかしい。生前の虎二郎はこれを一切、言葉ではあらわさなかった。日記も死後焼却を頼んでいる。唯一「実業之日本」の記者が静坐の弟子となり、再三、断られたあげく「正しく坐り、正しく判り、正しく書くのなら、それ以上報道の自由を妨げることは出来ない」と虎二郎の了解を得て、前掲「岡田式静坐法のすすめ」の一書をあらわしたのが例外である。

 残された門弟たちの書き残した言行録によると、静坐とは大略次のようなものらしい。

 一、足の土踏まずを深く重ねて正座する。
 膝の間は男はにぎりこぶし二ツ、女はにぎ りこぶし一ツあける。尻を突き出す。自然 に腹が出てやや前傾となる。
 二、肩の力をぬき、背骨は立て、みぞおち を落とす。
 三、目は閉じ、吸う息は意識せず下腹に力 を入れて少しずつ鼻から息を吐く。

 引力に順応した姿勢が大切で、脊梁骨をまっすぐにするのは大工のふりさげと同じ論理だという。虎二郎は「五重塔のようでなければならない」といったが、これは本行寺の目の前に、かの露伴の小説のモデルともなった谷中の五重塔が見えたからであろうか。

 虎二郎の信奉者は皇族、徳川慶久など華族、安田善次郎ら財界人から学者、学生まで幅広かった。徳川慶喜、渋沢栄一、中里介山、坪内逍遥、島村抱月なども静坐会に加わっている。

 大正八年ころ、参座した森田繁治という人が書き止めた「宗参寺の一年――岡田虎二郎先生のことば」を見てみよう。

「彫り師が像をきざむように、一呼吸一呼吸自分をほってゆかねばなりません」
「肩を怒らすのは、腹に力がないからです」
「運動した時やお酒を飲んだ時だけでなく、朝も晩も手足が温かでなければなりません」
「静坐すると簡易生活そのものになります」
「人のためばかり尽して自己に尽さない人は精力がつきます。精力がつきますと欲望がおきます」
「誰もが競争するからいけないのです。できない子に教えたり勉強させたりするのは、人を殺すようなものです」
「今の軍隊は忠義愛国を精神修養と思って、個人を発達させることを全く忘れています」
「クェーカーの瞑想は、殆ど静坐と同じです」

 アナキスト望月百合子氏に以前お会いしたとき、やはり本行寺の静坐会の話がとび出してきて驚いたことがある。逸見斥吉、田中正造、木下尚江、石川三四郎、福田英子そして望月さんというメンバーで坐っていたそうだ。

逸見斥吉は三陽堂という製缶会社の主人で、足尾鉱毒救済に奔走する田中正造や大杉栄らアナキストの兵糧を助けた人である。田中正造は虎二郎を「人と言わんよりは神なり」と評している。大逆事件のいわゆる「冬の時代」に、社会変革を試みて挫折した人々が、内面の変革に向かった時代でもあった。

 地方から静坐会に参加する人々で、本行寺前にはいつしか下宿屋ができ、静坐会が終わるとそのまま虎二郎について次の会場へ向かう人も多く、さながら「エルサレムに入る基督」のようだったとは相馬黒光の印象である。

 大正九(一九二〇)年十月十七日、岡田虎二郎は急逝する。五十歳に満たなかった。過労と腎臓病が原因だったといわれている。田端に住んでいた彫刻家北村四海がデスマスクをとった。相馬黒光などはショックで寝込んだが、健康法として静坐会に参加した人々は、主宰者の早世にその効力を疑い、あっけなく会を離れた。

 人格の信奉者にとっては二代様めいた者の出現はたまらなかった。「もうあれだけの人は二度と出ようがないから今後は静坐会には行かないことにしましょうね」と黒光女史は周囲の人と言い交わしている。

 これほど流行した理由について、「輸入品の重荷によろめく自分の姿の醜さを感じた知識人にとって、岡田式静坐法は何か自分の自然のスタイルに根ざした生活美学を与えた」という鶴見俊輔氏の評価がある。ともあれ何ら組織を作らなかった静坐会は虎二郎の死後、たやすく崩れ去ったかに見えた。が、その根は絶えず、各地で静坐会のグループは今も小さいながら活動を続けているという。

 本行寺本道左手の供養塔には虎二郎の惜愛した、
「一切業障海皆従妄想生
 若欲懺悔者端座思実相
 衆罪如霜露慧日能消除」
 という「普賢経」の偈が石に彫られている。

・「明治、東京、畸人傳」(新潮文庫)より
(作家)