静坐の友(季刊誌)

第15号 行先を忘れて登る不死の山 西湘静坐会 岡野 幸生 氏

 昭和四年十月十七日に田原城址三ノ丸に建立された静坐記念塔に岡田虎二郎先生の〝行先を忘れて登る不死の山〟のお言葉が刻されて居ります。

 さて、このお言葉が、〝行先をめざして登る不死の山〟ではないことを少し考えてみたいと思います。

 私達が静坐の門に入る動機は色々あると思います。自分自身の体の病気・性格・能力・経済生活の問題、周囲との人間関係の悩み、不慮の事故、被災など個人の力ではどうにも防ぐことが出来ないような問題、生死の問題等々、切っ掛けは種々あると思いますが、静坐によって、自分自身の問題に何か解決が得られるのではないかと期待をして静坐を始めるのではないでしょうか。

 私も柳田誠二郎先生の東京静坐会に通い始めた数年は、私でも坐っているうちに、恩師や先達の方々のような立派な人格者になれるのかな、という気持ちがどこかに、微かに有って坐っていたようでした。

 当時、学生時代に読んだ、『葦かびの萌えいずるごとく』の著者で、小田原で寺子屋のような〝はじめ塾〟を開いて居られた和田重正先生へ東京から毎月のように静坐の感想を手紙で差し上げて居りましたが、先生からの葉書の返信にはいつも、〝ただ坐ればよいのです〟の一言が有りました。

 考えてみますと、これがなかなか難しいところでして、私達はどうしても何らかの希望・期待を持ちながら坐るのではないでしょうか。

 岡田虎二郎先生の語録の中に

〝静坐するには何等かの希望を持ってはいかぬ〟
〝比較を離れよ〟
〝心の置きどころ、何の希望も持たぬ〟
〝無念無想とか何とか求めてはいけませぬ〟
〝静坐は「我」をすてることである〟 等々、ございます。

 また、曹洞宗の有名な禅僧、沢木興道老師(明治十三年生〜昭和四十年遷化)の法話にも、〝坐禅は人間の満足を充たすようなものではない〟とのお言葉もあったと思います。私達は現実の生活では求める生活活動をしていて、〝無為の国に静坐せよ〟、〝ただ静坐すればよい〟というのはなかなか理解出来ないもので、よほど好因縁に恵まれて正師にお会いし、長く指導を受けないと、そこの要諦を体得するのは難事なのかも知れません。

 どうも、宗教で教えられる、坐禅・念佛・お題目・禊・等々の行は、全て自分の望みをかなえる為にするのではない、「ただする」こと、この一道を宗教的天才の方達が教え示されたように思います。

 私達、静坐に御縁をいただいた者は〝行先を忘れて〟一歩一歩、一坐一坐。ただ坐っていくことが大事なのではないかと思う次第です。